昭和四十七年七月九日 朝の御理解
x御理解第五十節
「とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば、肥をせんでもひとりでに物ができるようなものぞ。」
兎角信心は地を肥やせとゆう事は、心を肥やせとゆう事だと思うですねえ。次の御理解を下さることの為に地にたとえられたんでしょうねえ。だから兎角信心は心を肥やせと、だから常平生からの修業がなされておらねば、だから常平生からの信心が大事だと。成程地が肥えておれば、さあ、あただ?に肥をせいでもひとりでに物が出来るような、お徳を受けて本当に、あれも成就これも成就とゆうように願いが成就していく。しかもそれが限りなくおかげを頂いていくとゆう、そうゆう事ですねえ。ひとりでにものが出来ていくようなもの。
そこで私思うんですけれどもね、そんなら何十年も金光様の御信心を頂いて、毎日日参しよんなさるとゆう人を随分知っとりますけれども、なかなかひとりでにものが出来ておるようなおかげを頂いておる人は見かけない。してみると、毎日のお参りをしとる、信心をしとるとゆう事が、心を肥やすとゆう事ではなさそうです。だから心を肥やすとゆう事がどうゆう事かという事を本気で極めていかなければいけない。そして本当に教祖がここにおっしゃっておられるように、ひとりでにものが出来るようなおかげとはこんなおかげだろうかとゆうおかげを体験し、又そうゆうおかげの頂かれる、おかげを頂かなければなりません。
今朝、私、御神前で「ワンタッチ」とゆう事を頂いた。テレビでコマーシャルやってますねえ、洗濯機の最新式の、あれはワンタッチで洗濯も出来る、ゆすぎも出来る、絞りも出来るとゆうようなもんじゃないですか。ボタンひとつで何でも出来ると。私は金光様の御信心というのはねえ、ワンタッチでおかげを受けられるんです。だから問題は、そのひとつの事をです、ひとつの本当な事を分かっていく事だと思う。
先日も或る教会の先生がみえられて、私が真の信心させてもらや真のおかげが受けられますよと。おかげが受けられんなら、真の信心が出来とらん証拠ですよとゆう意味の事を話して、そして、まあここで私が言うなら、かく信じておるとゆう事をね、所謂成り行きを大事にする、御事柄として受けていくとゆう事は、そのまま真の信心だといった事を話させて頂いたんですけれども、なかなかその真の信心を、口には言いますけれどもなかなか真の信心が分かりません、と言うてお話になります。
私が頂く事がね、大きな木に抱きついてござるところを頂いた。大きな木が、言うなら真とゆう事でしょうかねえ。そう思うてある訳ですよねえ。もう真の信心が分かりません分かりません、もう真の信心とは分からんもんのごとして一生を終わっていく人がどの位あるか分からん。だからおかげが頂かれません。抱きついとるだけじゃ交流しません。神様との交流がなからなければ、良いものは生まれてくるはずはありません。
ですからワンタッチとゆう事は、そうゆうね、ひとつの、言いながら一生がかりでも分からんとゆうもんじゃないとゆう事。例えて言うと、大きな木を切らせて頂く、昔は木挽きさんが引いたものですよねえ。段々電気が発達して参りましたから、製材とゆう事が出来、所謂ワンタッチ、ボタンをパッと押せばウィーンとゆう大きな唸りが出ると同時に、大きなのこがひとりでに回ります。それで大きな木が、もう一人か二人でアッとゆう間にしまえてしまう。だから、そんならどんなに例えば製材の設備が出来ておるからと言うてです、これは見事な機械だからと言うて、大きな木を持って行って、こうこうしたっちゃ出来ませんでしょう。それかと言うて、自分の手でこうこうやって回したっちゃ回りやしませんでしょうが。どこにその、所謂それの動く元のボタンがあるか、スイッチがあるかとゆう事を先ず探さなきゃいけん。どんなに大きな、例えば教会の設備が出来ましても、だからおかげ頂くとゆう事じゃありません。どんなに立派な、これは製材だけじゃありません。精米と言うてもいいでしょう。アッとゆう間に一俵をついてしまう程しの、それはやはり、あの、ひとつのボタンを押すことによって、そんなに簡単に出来る。
ここに昨年、北海道の乙犬(おといぬ)先生とゆう方がみえて、もう教団でもゆくゆくは、まだ若い先生ですけれども、中央で活躍されるだろうと思われる程しの頭のなかなか切れる先生。それは大体が福岡の教会にご縁を頂かれてね、お母さんと娘さんとの間が、もう非常に犬猿の仲とゆう位に仲が悪かった。ところが今頃みえた乙犬先生は、もう三十近くになりますかねえ、生れつきか途中からか知らんけれども盲目なんです。それで人から聞き伝えに聞かれて金光様の御信心を始められた。その時に福岡の三代吉木辰次郎先生がお取次をなさって、御神殿でその事をお取次なさったところが、「子供の病気は親の病気」と頂かれた。子供の病気は親の病気だと。親が改まらにゃおかげ頂かれんと言うて、親神様と氏子の関係、親と名がつきゃ、例えばどうゆう親でも親だとゆう、その事をこんこんと説かれた。そして自分が本当の親でありながら仲の悪い、その事も心から感じられてね、帰ってからお母さんの前に手をついて、もうそれこそ涙ながらに長い間あなたに背いてきた事、親孝行ひとつ喜んでもらえなかった事を、もう心からお詫びをされた。丁度新聞が来とって新聞を開いて、新聞の上でその子供が遊びよったらね、新聞の上に音がする程バラバラ涙がこぼれた。それっきり目が開いた。
ワンタッチとはそうゆう事なんです。先日、もう夫婦別れをすると言うてお届けのあった人があった。それで私、その事をお届けさせて頂いたんですけれども、例えば子供の事、お店の事、いろいろある訳です。今頃商売が不振で、どうも困る訳なんです。まあ金がある時にはなかなか仲がよかったんですけれども、段々金が不自由になってまいりましたら、もう毎日毎日夫婦喧嘩親子喧嘩と、他にも理由は有りましたけれども、親子夫婦別れをするとゆうようなお届けでした。それでね、その時私が、今日頂いておりますような御理解を頂いておればもっと素晴らしかったろうと思うのですけれども、兎に角あんたどんが夫婦が仲良うなりさえすれば商売が繁盛するよと、まあ申しました事でした。子供もちゃんとついて来るよ。
けれども今日の御理解を頂いとったらもっと良かったろうと思うのです。所謂ワンタッチなんです。だから真の信心真の信心とゆう事は、もう足元にあるとゆう事です。私は今日のこの御理解を頂いてからですね、ああ本当にそうだなあ、真の信心真の信心と言うて、それこそ大きな木に、こうやって分かろう思うとる、一生懸命。それこそ大きな木にしがみついてから腰使いよる。これで子供は出来るはずはないじゃないですか。真の信心とは、そんなこう大きなものじゃないとゆう事。真の信心とは、ほんな今、手前の親子の仲に夫婦の仲に誰々との関係の中にです、例えば仲が悪いなら、本当に私共がです、どうゆうところから仲が険悪になっておるかと元を辿らせて頂いたら乙犬先生じゃなかばってん、結局親が悪かつじゃない、私が悪かったと、どちらかが早く気が付いた方が勝ちなんです。親子の仲が、本当にお母さん長い間すみませんでしたと言うて、お詫びをされた。そしたらお母さんも又娘の手を取って、あんたばかりが悪いとじゃなか、お母さんも悪かったと言うて親子の仲が解け合うた。時にはもう孫がそこで目が開いとった。
結局ワンタッチの信心が出来た。ボタンがそこにあった。だから目が開いただけではない。それからお道の教師迄お取り立てを頂いて、北海道の言うなら日本の果て迄も行って、難儀な氏子のどんどん助かる。そして息子さんは、所謂小さい時に目が開いたとゆう、今でも眼鏡をかけておられるから、スッキリとはせんごたる。ああこの方が何時も話に聞く乙犬先生の子供さんだなあ、その方がもう大変、言うなら頭の良い先生で、お役に立ってゆかれる訳なんです。そうゆうように大きいおかげとゆうものが進展してくる。ボタンひとつ押せばワンタッチですすぎも出来れば洗濯も出来る。勿論絞る事も出来る。たったひとつのボタンを押せばとゆう訳です。だから私共の日々の中にそうゆう事がありゃせんだろうか。これは本当に私が詫びてでもことわり言わならん事がありはせんだろうか。成程おかげおかげと言うておかげが成程頂いておっても本当のおかげにならんのは、夫婦の仲の悪いからじゃなかったろうか、親子の仲が悪いからじゃなかろうか、人間関係がスムーズにいかないとゆうのはどんな中にあっても、こちらの心次第でそれを受けてゆけれる生き方を、日々教えて頂いているのに、それを行じなかったら教えを頂いておるも頂いていないも同じ事。
御神訓の中に、神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさであって、信心はしとっても哀れな事なのです。神の教えを聞いておっても行じなかったら知らんも同じでしょう。そして真の道真の道と言うたって真の道が分かろうはずがない。それこそ哀れなもの。ワンタッチとゆう事はまあだいくらもあろうと思う。
昨日ある人が無断で家を出た。まあ言うなら家出をした、大変心配してお届けがあった。そしたらその事を、私も一寸気に掛かることがあったから一生懸命神様にお願いさせてもらいよったら一寸帽子がね、おわんの舟に箸の櫂とゆう、あの噺話があるでしょう、あれを頂くんですよ。まあ家を出て行って一宿一飯と言うでしょうか、どこででん御飯くらい食べさせてもらうだろうけれどもね、私はその事も感じたけれども、大体どうゆうような事だろうかと御理解を頂かせて頂いたらね、御理解に「鬼に食われて鬼退治」と頂きました。本当にもう素晴らしい事だと思いました。兎に角根性が悪い人が垢離を積む、人に腹を立てさせる、これは心の中に鬼がおるからです。けれどもある事で行き詰まって家出でもせんならんごとなった時には、これは言うならば鬼に食われたようなもの。鬼に食われたけれども、日頃の信心が、そこにもの言うてきた。そして鬼退治をした。どこにおる鬼かというと、外におるのじゃない。自分の心の内におる鬼を退治した。鬼に食われて鬼退治と。
はあ私は、もうこれはお礼申し上げるこつたいと思うて、それから一生懸命お礼申させて頂きよります。だから皆さん、ある意味合いでね、鬼に食われるとゆう事でもいいです。難儀に直面するとゆう事もいいです。本当にどうしようかといったような時にです、初めて自分の心の、言うなら自分の心を本気で見つめる事になってくるのです。それこそ落ちぶれて袖に涙のかかる時であります。その人は初めて人の心の奥ぞ知らるれじゃなくて、初めて神様の心が分かったとゆう事になる。成程こうゆう心の状態では皆に好かれんはずだ、皆に垢離を積ませるはずだとゆう事が分かる。これから自分とゆう者を見ていく、自分とゆう者が見極められていく。鬼に食われて鬼退治。もうこれでしまえたかと直面するひと?時人の心どんが分かるのじゃなて、本当に神様の心の奥が分からせて頂いて、こうゆう事で私は幸せになるはずはない。これで私が助かられるはずはないとゆうものを分からせて頂いて、それこそ用心せよわが心の鬼が我が身を責めるぞとおっしゃるが、我子の鬼が自分とゆう者を責め立てておる時なんだ。初めて鬼に食われてみて外に鬼がおったのじゃなかった、自分の心の中に鬼がおったと分からせて頂いた。
私は今日の五十節からね、私共は日々、小刻みにです、いろんな問題のある時にです、例えば今日は人間関係のことで申しましたけれども、人間関係で本当に夫婦の仲が悪いなら夫婦仲良う、親子の仲が悪いなら親子の中に仲良うしていく事に精進させて頂いて、自分とゆう者を見極めさせて頂く事によってです、家内が悪いとじゃない自分が悪かったとゆう事になり、親じゃなかった私だったとゆう事になるのです。そうゆう事になってです、ワンタッチの体験をですね、頂いていく事。日々、まあ言うなら日々ですよねえ、この事ひとつ分からせて頂いたから、今日早速それを実行する訳なんです。そしたらね、たっとひとつのボタンを押したら、もうあれもおかげになった、これもおかげになった。私が先日、その夫婦別れをするとゆう人に話したように商売が不振、子供がついちゃあこん。だからあんたどんが夫婦が仲良うなりさえすりゃ商売の方でちゃ子供の方でちゃおかげ頂くよと、まあ言いましたけれども、私は今日の御理解頂いてから、こうゆう御理解頂かせたらもっと分かっただろうと思うた。今度来たら、その事を話してあげようと思うのです。
本当にこれは夫婦仲良う出来ん事情があってもです、本気で仲良うなる稽古をさせてもらったらです、願いに願っとる商売の方が繁盛してくるとじゃから。どうして言う事聞かんじゃろうかとゆう子供が言う事聞くようになってくるのじゃから、ワンタッチで。そうゆうおかげを頂きながら、私共が又言うならばです、それこそまあ遺言をせんならんとゆう難儀に直面した時です、いろんな難儀に直面した時に、私は本当に我心の鬼に気が付かして頂いて、鬼に食われて鬼退治が出来た時にです、私はそうゆう行き方にです、ひとりでにものが出来る程しの徳とゆうものを受けるんだと思いますね。だから根性の悪い事もいいですよ、やっぱり、自分の心の中にいっぱい鬼がはびこっとるとゆう事も有難い事なんです。それが何かの機械に退治される事になれば、素晴らしい事です。兎に角信心は地を肥やせ、言うだけでです、そんなら地とはどうゆう事じゃろうか。肥やすとゆう事はどうゆう事じゃろうか。皆が追求しよらんようですねえ。沢山のお道の信者が言うばっかり。ひとりでにものが出来るようなおかげだけは頂きたいばってん。毎日毎日お願いお願いばっかりやあやあ言うてから、何十年信心しとりゃそうゆう風なおかげだけは頂くばってんね、ひとりでにものが出来るようなおかげを頂いとらん。そんなら自分の心を肥やさにゃこて、言うなら肥やすとゆう事はどうゆう事じゃろうかと。一生懸命参る事じゃない、一生懸命御用する事じゃない事が分かるですね、今日の御理解頂きよると。
言わば常平生の信心が大事じゃとおっしゃるから、毎日参りよりゃよかとゆう事じゃないとゆう事は、多くの金光様の御信者を見りゃ分かる。あの人達は何十年て毎日参りござるばってん一向おかげ頂きござる風でもなか。勿論ひとりでにものが出来るようなおかげも頂きござる風でもなか。違う事がそれだけでも分かるでしょうが。だからここんところを私は、教祖の御教えとゆうのは本当に取り組まにゃいかんと思う。地を肥やす事によってひとりでにものが出来るようなおかげ頂かにゃならん。
地を肥やすとゆう事はどのような事なのか。もうあいつとは仲良うなろうごとなかばってん、いっちょ本気で仲良うなれとおっしゃるけん、本気で仲良うなる気になったらです、それこそ乙犬先生じゃないけれども「私が悪かったお母さん」と、言うたら「あんたばかりが悪かつじゃなか、私も悪かった」と交流したんです。だから盲が目が開いたとゆうようなものが生まれたんです。それだけではないワンタッチで、それこそお道の教師にまでお取り立て頂かれるとゆうようなおかげに進展してきた訳です。
どうでもひとつ、ひとりでにものが出来る程しのおかげを頂きたい。その為には、いよいよ地を肥やす信心にならなければいけません。地を肥やすとゆう事は、今日私が申しましたような事が内容になると思うですね。どうぞ。